イベントトップに戻る
広島と長崎に投下された原爆は一挙に20万人もの一般市民の命を奪い、生存者もその後長く苦しみを強いられた。最悪の大量殺りく兵器であることが明白になっても、世界は「国防」「正義」「平和維持」などの名のもとに開発競争と配備拡大に突き進み、実際に使用されるリスクがこれまでになく高まっている。
米国は原爆製造技術の独占を図ったが、1949年にはソ連が原爆実験に成功、英国、フランスも“核クラブ”の仲間入りをした。さらに強力な水爆実験も米国を先頭に各国が追随し、冷戦を背景とした核兵器開発競争が展開された。
55年、広島で初の原水爆禁止世界大会が開催され、世界でもバートランド・ラッセルやアインシュタインといった著名な哲学者、科学者をはじめとした反核の動きが盛り上がった。
60年代に入ると「キューバ危機」を経て核軍縮への動きも始まり、63年8月には米、英、ソにより部分的核実験禁止条約が調印された。しかし中国が64年10月に、インドが74年5月に、それぞれ核実験をするなど核保有国は一気に増え、米ソ両超大国の影響力低下により新秩序構築が課題となった。
このような流れへの危機感から80年代は世界的に再び反核の機運が盛り上がり、市民レベルの運動も大規模に展開された。90年代、冷戦の終結とソ連の崩壊に伴って核兵器の管理と拡散防止が課題となったが、北朝鮮、イランといった国が核保有に意欲を見せ、テロリストへの核流出も懸念される事態となった。
2000年以後は中国が核を含めた軍備を急速に拡大させ、北朝鮮が核実験とロケット技術開発を加速させて東アジアをめぐる安保情勢が緊張化した。
日本では1967年12月に佐藤栄作首相が「非核三原則」を打ち出して国是とされたが、最近になって三原則の見直しや、核保有をめぐる議論を容認する発言などが政府周辺からも出るようになった。ウクライナを侵略したロシアやガザ侵攻のイスラエルなどからは核使用の脅迫が頻繁に聞かれる。
そうした中で2024年、日本原水爆被害者団体協議会(1956年結成、被団協)がノーベル平和賞を受賞した。