会期:2022年4月29日(金・祝)~5月15日(日) 10:00~19:00(初日12:00から、最終日18:00まで)/会期中無休/会場:東京国際フォーラム ロビーギャラリー/入場無料
主催:公益財団法人新聞通信調査会/協力:沖縄タイムス社、琉球新報社、共同通信社
座談会

「沖縄50年の裏話表話~地元記者の取材メモ~」4月29日(金)開催
平良哲(沖縄タイムス社)、近藤好沖(琉球新報社)、河原仁志(新聞通信調査会/進行役)

公益財団法人新聞通信調査会
入場無料

この50年何が変わって、
何が変わらなかったのか。
沖縄の今とこれからを見つめる

「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」―。当時の佐藤栄作首相が米国との交渉を本格化させ、米国の施政権下に置かれていた沖縄がようやく本土に復帰したのは1972(昭和47)年5月15日。今年は復帰50年の節目に当たります。復帰の「喜び」と米軍基地への「怒り」が織りなした沖縄の変遷を138枚の報道写真で振り返りました。

50年を長かったと見るか、短かったと見るかは、その人の視点にもよりますが、米軍基地の現実は50年経過しても「本土並み」とは程遠いのが実情といえるでしょう。現在、全国の米軍専用施設の7割が沖縄に集中しています。50年史のほぼ中間で起きた1995年の米兵による少女暴行事件を境に、沖縄の人たちの「怒り」が増幅していったように思います。それは今も続く普天間飛行場の辺野古移転計画の難航につながっています。

一方、スポーツやエンターテインメントの分野では沖縄が存在感を強めています。ボクシングの具志堅用高さんは世界王座13度防衛の日本人記録を作り、2021年の東京五輪では空手で喜友名諒選手が沖縄初の金メダリストになるなど、多くのアスリートを輩出しています。そして歌手の安室奈美恵さんは「平成の歌姫」と評されるほど人気がありました。

2022年は戦後77年になります。悲惨な沖縄戦を経て敗戦、米国施政下に置かれた27年、そして本土復帰50年。多くの、とりわけ若い人たちに写真展を見ていただきたいと思います。

展示構成

プロローグ二つの風景

プロローグ

Prologue.Two Scenes

第1章前史―復帰への奔流

第1章

Chapter 1.Early History -
Torrent before Return to Japan

第2章「一体化」と「自立」

第2章

Chapter 2.Integration with Main Islands
and Self-Reliance

第3章美ら海・美ら島と人々

第3章

Chapter 3.“Chura”(Beautiful) Sea,
Islands and People

第4章基地との葛藤

第4章

Chapter 4.Disputes over
U.S. Bases

エピローグ万国津梁の理想

エピローグ

Epilogue.Ideal of“Bankoku Shinryo”
(Bridge between Nations)

エッセー内地コンプレックス
からの50年

エッセー 写真:ガレッジセール・ゴリ(お笑い芸人)©YOSHIMOTO KOGYO CO.,LTD.ガレッジセール・ゴリ
(お笑い芸人)

Essay

プロローグ二つの風景Prologue. Two Scenes
日本武道館で沖縄復帰記念式典

日本武道館で沖縄復帰記念式典

1972(昭和47)年5月15日、東京の日本武道館で開かれた日本政府主催の沖縄復帰記念式典で万歳する出席者。式典で昭和天皇は「戦争中、戦後を通じ、沖縄県民の受けた大きな犠牲をいたみ、長い間の労苦を心からねぎらう」とお言葉を述べた。政府主催の式典は東京と沖縄で同時に開催され、屋良朝苗知事は沖縄会場で出席した。

Celebrating Okinawa's return to Japan

People raise “banzai” cheers at a ceremony at Nippon Budokan Hall in Tokyo on May 15, 1972, to celebrate Okinawa's reversion from the U.S. to Japan. A separate government-sponsored ceremony was also held in Okinawa.

復帰の日、那覇で抗議大会

復帰の日、那覇で抗議大会

1972(昭和47)年5月15日、沖縄復帰記念式典が東京と沖縄で同時開催されている中、沖縄会場の那覇市民会館に隣接する与儀公園では「5・15県民総決起大会」が開かれた。復帰の祝賀ムードと対照的に、基地の負担が軽減されないままの本土復帰に抗議する大会だった。毎年5月15日は「本土復帰の日」として基地反対運動が行われている。

Protest in Okinawa

Protesters hold various banners during a rally at Naha's Yogi Park on May 15, 1972, while government-sponsored ceremonies are held in Tokyo and Okinawa to celebrate Okinawa's return to Japan. The protesters denounced the heavy U.S. military burden on Okinawa Prefecture even after the island prefecture's reversion.

  • サムネール
  • サムネール
第1章前史―復帰への奔流Chapter 1. Early History - Torrent before Return to Japan
米軍が伊江島に上陸

米軍が伊江島に上陸

1945年(昭和20)年4月、伊江島で、わらぶき屋根の民家が燃え上がる中を進む米兵。沖縄戦の初期、4月16日から21日の間、伊江島では激戦が続き、住民のほぼ半数が犠牲になった。地元住民も防衛隊員として戦闘に参加した。現在、同島の約3分の1は米軍用地で、航空機の発着訓練やパラシュート降下訓練などが実施されている。(米沿岸警備隊撮影、ACME)

U.S. soldiers land on Ie Island

A U.S. soldier walks by blazing thatched houses on Ie Island in April 1945 during the initial phase of the Battle of Okinawa, leaving about a half of island residents dead. (Photo by U.S. Coast Guard, ACME)

捨てられた甲子園の土

捨てられた甲子園の土

1958(昭和33)年8月26日、夏の全国高校野球選手権大会に出場した首里高校が甲子園球場の土を持ち帰ったが、植物防疫法に抵触するため防疫官の手で那覇港の海に捨てられた。首里高校は、本土復帰前の沖縄代表として春夏を通じて初めて甲子園の土を踏んだ。(沖縄タイムス社提供)

Dumping keepsake Koshien Stadium soil into sea

Soil taken from Hanshin Koshien Stadium's field by baseball team members of Shuri High School in Oki-nawa as souvenirs of their participation in a summer national high school championship is dumped into the sea at Naha port on Aug. 26, 1958, due to plant quar-antine regulations of the U.S. occupation government. (Photo courtesy of Okinawa Times)

首相官邸前で全面返還要求のハンスト

首相官邸前で全面返還要求のハンスト

1967(昭和42)年11月8日、佐藤栄作首相の訪米を前に、沖縄の全面返還を要求し、首相官邸前でハンガーストライキに入った沖縄県の代表。翌週、佐藤首相はジョンソン大統領と会談、「両三年内」に返還時期のめどを付けると合意、返還問題が具体的に進展することになった。

Hunger strike for Okinawa reversion

Representatives of Okinawa Prefecture stage a hunger strike in front of the prime minister's official residence in Tokyo on Nov. 8, 1967, to demand the return of Okinawa to Japan ahead of Prime Minister Eisaku Sato's visit to the U.S. In the following week, Sato and President Lyndon Johnson met at the White House and agreed to set the stage for Okinawa's reversion in two to three years.

沖縄で国政参加選挙

沖縄で国政参加選挙

1970(昭和45)年10月23日、「国政参加選挙」に向けて那覇市内の市場で支持を訴える衆院選の候補者。米国の施政権下にあった沖縄の住民には、日本の衆参両院選挙に参加する権利がなかった。沖縄の立法院は返還交渉で沖縄民意を反映させるため何度も国政参加を決議したが、認められたのは返還合意後のことだった。70年11月15日、特別措置法に基づき衆院5議席、参院2議席を巡る国政参加選挙が実施された。

National elections in Okinawa

A candidate for the House of Representatives campaigns in Naha, Okinawa Prefecture, on Oct. 23, 1970, in special national elections in Okinawa in November in which five lower house seats and two House of Councillors seats were at stake.

コザ暴動

コザ暴動

1970(昭和45)年12月20日、コザ市(現沖縄市)で米軍関係者の車両を焼く群衆。米兵の車両が住民男性をはねた事故を端緒に暴動が起き、民衆が事故処理中の米軍憲兵らを包囲。憲兵の威嚇発砲で激高した民衆が、憲兵や軍関係者の車両に次々と放火、70台以上を焼いた。米側、沖縄側の負傷者はいずれも数十人とされる。この暴動は突発的なものではなく、3カ月前に糸満市で酒に酔った米兵が沖縄人女性をひき殺したにもかかわらず、米軍法会議が証拠不十分で無罪としたことが背景にあった。沖縄は当時、ベトナム戦争の出撃拠点で、70年には米軍人・軍属による犯罪が960件発生した。

Riot in Koza, Okinawa

An angry crowd sets a vehicle of U.S. military personnel on fire in Koza (present-day Okinawa city) on Dec. 20, 1970, after a car driven by a U.S. serviceman hits a local resident. Warning shots by American MPs escalated the riot and more than 70 vehicles of the MPs and military personnel were burned.

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第2章「一体化」と「自立」Chapter 2. Integration with Main Islands and Self-Reliance
1ドル=305円に決定

1ドル=305円に決定

1972(昭和47)年5月12日、那覇市国際通りで、復帰に伴う切り替えレート1ドル=305円の張り紙を見る人たち。前年の「ニクソン・ショック」で円は切り上げられ、変動相場制に移った。交換レートは復帰当日の1週間前の実勢レート平均に決まった。これより前、円との交換でドル資産が目減りすることへの反発に配慮し、71年10月9日に沖縄の人たちが保有しているドルを申告させ、その分はニクソン・ショック以前の1ドル=360円で交換するという救済策を決定。給付した差額は総額315億円に達した。

305 yen-to-dollar exchange rate

People look at an advance notice of a new exchange rate of 305 yen to the U.S. dollar in Naha on May 12, 1972.

午前0時、本土復帰

午前0時、本土復帰

1972(昭和47)年5月15日、午前0時を迎えた那覇市の国際通り。各市町村のサイレンと港に停泊する船舶の汽笛が鳴り響いた。沖縄は米統治が終わり、27年ぶりに本土に復帰した。

Okinawa formally returns to Japan

A clock on Naha's Kokusai street shows 00:00 on May 15, 1972, when Okinawa Prefecture is officially returned to Japan after a 27-year hiatus.

沖縄全戦没者追悼式の知事と首相

沖縄全戦没者追悼式の知事と首相

2017(平成29)年6月23日、糸満市の平和祈念公園で営まれた「沖縄全戦没者追悼式」で、演台に向かう安倍晋三首相(手前)を見つめる沖縄県の翁長雄志知事(左端)ら。翁長知事は平和宣言で「辺野古に新たな基地を造らせないため、不退転の決意で取り組む」と訴えた。

Abe, Onaga face off

Prime Minister Shinzo Abe (foreground) prepares to deliver a speech at the 72nd anniversary of the Battle of Okinawa at Peace Memorial Park in Itoman on June 23, 2017, while Okinawa Gov. Takeshi Onaga (far L) and others look on.

首里城炎上

首里城炎上

2019(令和元)年10月31日、那覇市の首里城が炎上、見つめる大勢の人たち。正殿や北殿、南殿など計6棟が全焼した。首里城は14世紀ごろに創建され、以来度重なる火災に見舞われ、焼失は1945年の沖縄戦に次いで5回目。92年、本土復帰20年を記念して復元され、観光拠点であり、沖縄の象徴だった 。政府は2022年中に焼失した首里城正殿復元に向けた本体工事に着手、26年の復元を目指す。

World Heritage castle on fire

People watch Shuri Castle, a World Heritage site and popular sightseeing spot, in Naha, Okinawa Prefecture, burning on Oct. 31, 2019. The castle is set to be rebuilt in 2026.

母の名前刻まれた平和の礎

母の名前刻まれた平和の礎

2021(令和3)年6月23日、「平和の礎」に刻まれた母親の名前を拭く高齢女性。この日は、沖縄戦で日本軍による組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」。平和の礎は軍民や敵味方の区別なく、太平洋戦争末期の沖縄戦による犠牲者ら約24万人の名前を刻んだ石碑で、糸満市摩文仁の平和祈念公園内に建てられている。

Mother's name on “Cornerstone of Peace”

An elderly woman cleans her mother's name inscribed on the “Cornerstone of Peace” at Okinawa Peace Memorial Park in Itoman, Okinawa Prefecture, on June 23, 2021. The cenotaph also lists about 240,000 other victims of the Battle of Okinawa during World War II.

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第3章美ら海・美ら島と人々Chapter 3. “Chura”(Beautiful) Sea, Islands and People
世界自然遺産登録の西表島

世界自然遺産登録の西表島

2018(平成30)年4月30日、夕暮れ時、西表島の河口に広がるマングローブ林。国内最大規模のマングローブ林など壮大な自然が魅力の西表島は、沖縄では本島に次ぐ大きさで、約90%を森林が占める。21年7月、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が、世界自然遺産に登録された。

Iriomote Island on World Heritage list

The photo, taken at dusk on April 30, 2018, shows a mangrove forest on Iriomote Island in Okinawa Prefecture. Iriomote Island and the northern part of the main Okinawa Island, along with Amami-Oshi-ma Island and Tokunoshima Island in Kagoshima Prefecture, made UNESCO's Natural World Heritage list in July 2021.

海底に特攻機のエンジン

海底に特攻機のエンジン

2015(平成27)年8月16日、沖縄本島北部、今帰仁村の古宇利島沖の海底に沈む旧日本軍の特攻機のものとみられるエンジン。前日の終戦の日に花輪などが手向けられた。近くには特攻機の攻撃で航行不能になり、米軍の手で沈められた米軍艦「エモンズ」が横たわる。

Remains of suicide fighter plane

The engine of an Imperial Japanese Army fighter plane is seen on the seabed off Kouri Island in Nakijin village, Okinawa Prefecture, in this photo taken on Aug. 16, 2015.

無病息災願い、泥まみれ

無病息災願い、泥まみれ

2011(平成23)年10月2日、全身に泥とつる草をまとった神様「パーントゥ」から顔に泥を付けられ、泣き叫ぶ子ども。バーントゥは宮古島市で行われる無病息災を願う奇祭。18年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)により、パーントゥや秋田のナマハゲなど8県10件の行事で構成する「来訪神 仮面・仮装の神々」が無形文化遺産に登録された。

Paantou festival

A mud-painted small child cries as a person masquerading as a supernatural “Paantou” (C) holds another child to apply mud during a traditional exorcism ceremony to pray for good health in Miyakojima, Okinawa Prefecture, on Oct. 2, 2011.

世界王者の具志堅が郷土でパレード

世界王者の具志堅が郷土でパレード

1976(昭和51)年10月20日、那覇市の国際通りをパレード、女性ファンと握手するプロボクシング世界チャンピオンの具志堅用高選手。プロ9戦目で世界王者になり、沖縄のヒーローに。80年には世界王座13連続防衛の日本記録を樹立、81年3月、地元沖縄県での14度目の防衛戦に敗れ、25歳で引退した。

Native boxer Gushiken receives hero's welcome

Yoko Gushiken, a newly crowned WBA light-flyweight champion, shakes hands with an admirer during a victory parade in Naha, Okinawa Prefecture, on Oct. 20, 1976.

安室奈美恵さんが引退

安室奈美恵さんが引退

2018(平成30)年9月16日、沖縄出身の人気歌手、安室奈美恵さんがこの日で引退、宜野湾市には大勢のファンが集まり、キャラバントラックに施された安室さんのラッピングを写真に収めた。安室さんは1992年にアイドルグループのメンバーとしてデビュー。ソロとなってヒット曲を連発した。安室さんのファッションをまねた「アムラー」が流行語になり、社会現象となった。2000年の沖縄サミットでは、イメージソングを歌った。

Pop diva Amuro retires

Fans of popular pop singer Namie Amuro from Okinawa Prefecture take souvenir photos in front of a caravan truck wrapped with her giant photo at her final stage performance in Ginowan on Sept. 16, 2018.

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第4章基地との葛藤Chapter 4. Disputes over U.S. Bases
毒ガス兵器1万3000トンを撤去

毒ガス兵器1万3000トンを撤去

1971(昭和46)年7月15日、沖縄本島中部で、住民が見守る中、米軍の毒ガス兵器を移送するトレーラー。米軍知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫)から太平洋岸の米軍天顔桟橋まで移送した後、太平洋のジョンストン島に運んだ。米施政権下、米軍は沖縄に大量の核兵器や毒ガスを配備。69年7月に起きた毒ガス漏れ事故を受け、71年1月と7~9月に、沖縄に保管していたマスタードガスや神経ガスのサリンなど総量1万3000トン余りの毒ガスを撤去した。1月の移送では周辺住民5000人以上が避難した。(琉球新報社提供)

Removing 13,000 tons of chemical weapons

A U.S. military trailer carries chemical weapons from U.S. Army Chibana Ammunition Depot to Tengan pier on Okinawa's main island on July 15, 1971, before being shipped to Johnston Atoll in the North Pacific. The U.S. military deployed huge amounts of nuclear and chemical weapons during its occupation of Okinawa. In the aftermath of a nerve gas leak from the Chibana site, the U.S. military removed over 13,000 tons of mustard, sarin and other agents in January and July-September in 1971. (Photo courtesy of Ryukyu Shimpo)

嘉手納のB52見つめる住民

嘉手納のB52見つめる住民

1972(昭和47)年10月27日、復帰後も継続使用された米軍嘉手納基地で、金網越しにB52爆撃機を見つめる住民ら。68年11月には同基地でベトナムに向かうB52が離陸に失敗し墜落、炎上した。搭載されていた爆弾が爆発し、付近の住民が負傷、民家に被害が出た。事故の翌年、B52撤去を求める県民大会があり、70年にはB52部隊は同基地から撤退したが、その後もたびたび飛来した。

Living near U.S. base

Local residents mingle around barbed wire to watch military aircraft at U.S. Kadena Air Base in Okinawa Prefecture on Oct. 27, 1972.

保育園の上空飛ぶオスプレイ

保育園の上空飛ぶオスプレイ

2012(平成24)年10月1日、宜野湾市の保育園で遊ぶ子どもたちの上空を米軍普天間飛行場へ向かうオスプレイ。この日、米軍岩国基地(山口県岩国市)に一時駐機していた新型輸送機MV22オスプレイ6機が普天間飛行場に配備された。オスプレイは開発段階からトラブルや事故が相次いだ。16年2月には普天間所属の機体が名護市の浅瀬に不時着して大破。米軍や政府は機体に不具合が生じ、陸上を避けて自発的に着水した、「墜落ではない」(稲田朋美防衛相)と説明した。これに対し翁長雄志知事は「大破している状況から墜落だと認識している」と反発、安全性への懸念を深めた。

Ospreys deployed in Okinawa

Children play in a nursery school in Ginowan, Okinawa Prefecture, on Oct. 1, 2012, while a U.S. Marine Corps MV-22 Osprey tilt-rotor transport aircraft heads for U.S. Marine Corps Futenma Air Station from U.S. Marine Corps Iwakuni Air Station in Yamaguchi Prefecture.

少女暴行事件で県民総決起大会

県庁ロビーで抗議の座り込み

2013(平成25)年12月27日、名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認に抗議し、沖縄県庁1階ロビーで座り込む人たち。県庁前の広場には午前から大勢の県民らが集結。反対派は「人間の鎖」で県庁を包囲後、庁舎内になだれ込み、夕方に解散するまでシュプレヒコールを繰り返した。

Sit-in against landfill work

Protesters stage a sit-in protest in the lobby of the Okinawa prefectural hall in Naha on Dec. 27, 2013, after Okinawa Gov. Hirokazu Nakaima approved landfill work for the relocation of U.S. Marine Corps Futenma Air Station within the prefecture.

米軍普天間飛行場と嘉手納基地

米軍普天間飛行場と嘉手納基地

2021(令和3)年11月20日、米軍普天間飛行場(中央)と嘉手納基地(左上)。普天間飛行場は宜野湾市の中心部に位置する海兵隊基地で、市面積の約24%に当たる約476ヘクタールを占める。周りに住宅や学校が密集し「世界一危険な米軍基地」とも言われている。

Futenma and Kadena bases

Aerial photo, taken on Nov. 20, 2021, shows U.S. Marine Corps Futenma Air Station (C) and U.S. Kadena Air Base (rear L) in Okinawa Prefecture. The Futenma base, surrounded by a heavily populated area, is described as the most dangerous U.S. base in the world.

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エピローグ万国津梁の理想Epilogue. Ideal of“Bankoku Shinryo” (Bridge between Nations)
県庁に万国津梁のびょうぶ

県庁に万国津梁のびょうぶ

2019(令和元)年9月29日、沖縄県庁の知事応接室に置かれたびょうぶの前に立つ玉城デニー知事。びょうぶの漢文は国の重要文化財「万国津梁の鐘」に刻まれているもの。「万国津梁」は世界の懸け橋という意味で、銘文には琉球王国の美しさ、朝鮮や明国(中国)との友好、外国の産物や宝が国中にあふれている様子などが記されている。

Folding screen

Okinawa Gov. Denny Tamaki stands in front of a folding screen of phrases in Chinese characters carved on the “Bankoku Shinryo no Kane” (Bridge of Nations Bell), a nationally important cultural property, in the reception room of the Okinawa prefectural government office building on Sept. 29, 2019. The message tells of the Ryukyu Dynasty's beauty, friendship with the Korean Peninsula and China, and abundant foreign products and treasures in the dynasty.

世界の懸け橋「万国津梁館」と命名

世界の懸け橋「万国津梁館」と命名

2000(平成12)年3月29日、建設工事の完了を前に、ライトアップされ浮かび上がった沖縄サミットの主会場「万国津梁館」。沖縄サミットに合わせ名護市の部瀬名岬リゾートエリアに建設された。沖縄らしさが強調された建物で、名称は世界の懸け橋を意味する「万国津梁」から付けられた。

G-8 venue Bankoku Shinryokan

Aerial photo, taken on March 29, 2000, shows the illuminated Bankoku Shinryokan (Hall of Bridge Between Nations) complex in Nago, Okinawa Prefecture, the main venue of the Group of Eight (G-8) summit in July 2000.

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エッセー内地コンプレックスからの50年Essay

ガレッジセール・ゴリ(お笑い芸人)

「復帰っ子」。1972年生まれは必ず言われるこの言葉。江戸っ子、駄々っ子、もやしっ子、いろんな言葉はあるけれど「復帰っ子」と呼ばれる地域は沖縄だけだろう。

復帰の1週間後に僕は生まれた。復帰前の事など何も知らない。ドルを使っていた事も、パスポートで東京に行った事も、車が右側通行だった事も知らない。唯一分かっているのは復帰10カ月前に両親が愛し合った、という事ぐらいだ。当時の沖縄はまだ建物も低く、小さな森や林などもたくさんあった。犬は放し飼いが当たり前で、近所の犬によく足を噛まれた。今なら裁判ものだ。

僕が4歳になる1976年、具志堅用高さんが県民初のボクシング世界チャンピオンになった。当時の沖縄は日本の近代化に乗り遅れ、全てにおいて劣っていた。そんな劣等感を抱く県民にとって具志堅さんの偉業は大きな勇気を与えた。今は変なオジさんだが……。

日本復帰から6年後、ようやく車が左側通行に戻った。右側通行に慣れていた県民はヒヤヒヤしながらハンドルを握った。6歳の僕も、右側か左側か迷いながら犬の横を通ったが、結局噛まれた。

7歳になる僕は大阪に転校することになる。沖縄しか知らない田舎者にとって大都会「大阪」の景色は同じ日本とは思えなかった。

生まれて初めて乗る「電車」。鉄製の巨大なヘビが大量の人間を飲み込み、線路の上をニョロニョロと進む。僕にとっては、もうアトラクション気分。車両の先頭から最後尾まで歩く。ちょっとした冒険だった。地下には地下鉄も走り、巨大モグラの通り道がどこまでも続く。沖縄なら不発弾だらけで工事が進まないだろう。道路の上には高速道路も伸び、時速30キロで追い越し車線を走り続けるオバアの姿もない。繁華街は巨大デパートが立ち並び、国際通りが学園祭に感じた。7歳にして味わう「沖縄の遅れ」。

4年後、小学5年生で沖縄に戻る。特に変わった様子もなく相変わらず犬も噛み付いてきた。「週刊ジャンプ」は1週間遅れで届いた。電話越しに大阪の友達がジャンプの内容を教えるのが迷惑だった。

当時の沖縄は「断水」もあった。今ほどダムも整備されておらず、雨が降らないとすぐ水不足になった。ニュースで断水が発表されると、すぐ湯船に水を溜めた。沖縄で唯一湯船が使われる日だ。それ以外の日は、ただのくぼみでしかない。湯船の水を使い炊事や洗濯をした。沖縄の屋根の上に必ずある水タンクも断水対策のためだと後から知った。

中学校に上がると男子は全員丸坊主になった。当時の中学は丸刈りが校則。「非行に走らないため」「清潔に保つため」理由はいろいろあるが、今なら人権問題に発展しただろう。バレー部、バスケ部、サッカー部、どの部活に入ろうが、みな野球部に見えた。女子にモテたい年頃の丸刈りは悲しく、カッコつけてジェルなど塗ってみたが、丸坊主がテカテカ光るだけで汗っかきの野球部にしか見えなかった。

丸刈りだろうが非行に走るヤツは走った。当時の沖縄はヤンキーファッションも独特で、内地とは、かなり違っていた。内地のヤンキーは「ボンタン」と呼ばれる学生ズボンを履いた。太モモ部分がダボダボに太く、足首に向けて細くなる。沖縄は真逆の「ラッパズボン」。太モモ部分がピチピチで、足首に向けてラッパのように広がる。まるでフォークシンガー。吉田拓郎、南こうせつ、沖縄のヤンキー、見分けがつかない。でも当時はそれが恐ろしかった。

国際通りでラッパズボンを見かけると、すぐ路地に逃げ込んだ。しかし彼らはインパラを逃さない。気づけば背後に付かれ、カツアゲの定番「希望ヶ丘公園」に連行された。靴の中に隠したお金まで全て取られる。「取られない場所はどこだ……」靴下の中に隠す事にした。フォークシンガーとの知恵くらべ。いつもの国際通り。また背後に付かれ希望ヶ丘公園に行く。もう靴の中に金はない。今回は俺の勝ちだ。

「靴下脱いでごらん?」まさかの言葉が出る。彼らには全てお見通しなのだ。希望ヶ丘公園は「希望のない公園」として記憶に残っている。

首里高校に入学し、2年生になった1989年、「首里城」の再建工事が始まった。学校近くは作業トラックが行き来し騒がしくなった。まさか30年後に火災に遭うなど誰も想像しておらず、期待に胸を膨らませた。ちなみに23年後に首里高のグラウンドから不発弾が出てくる事も誰も想像してなかった。サッカー部だった僕は3年間、不発弾の上でボールを蹴っていた。あの世にゴールしなくて本当に良かった。

1990年、沖縄に大きな変化が訪れる。栽弘義監督率いる沖縄水産高校が甲子園で初めて決勝まで勝ち進み、みごと準優勝を果たしたのだ。ほとんどのスポーツにおいて、まだ内地に追いつけない状況の中、沖縄が全国に通用することを栽監督が証明してくれた。決勝当日は県民全員がテレビの前にかじりついた。父の使いでビールを買いに行くと「いま甲子園見ているから後できて!」と客なのに帰された。タクシー運転手はみな路肩に車を止め、ラジオに耳を傾けた。その日の沖縄は経済がストップしていたと思う。劣等感を抱えた県民にとって、それほど誇らしい出来事だった。

着工から3年後の1992年、いよいよ沖縄のシンボル「首里城」が完成した。沖縄観光にも勢いが乗る。芸能界では「沖縄アクターズスクール」が旋風を巻き起こし、安室奈美恵を筆頭にMAX、SPEED、DA PUMPなど次々とスターが生まれた。全てにおいて遅れが目立った沖縄は徐々に「オシャレで、カッコいい、憧れの島」へと姿を変えていった。97年には新都心が開放され、北谷のアメリカンビレッジなど、次々と新しい街ができはじめた。2000年には先進国の首脳陣が集い「沖縄サミット」が開催。この小さな島が世界に発信された。

2001年にはNHKの朝ドラ「ちゅらさん」もスタート。沖縄ブームは止まらない。今まで「ゴリ」という芸名に反対していた母親も、僕の朝ドラ出演を機に「わたしのゴリ~」と芸名で呼ぶようになった。NHKは親の手の平も返した。劇中に出てくる「ゴーヤーマン」というキャラクターグッズも飛ぶように売れ、これに目をつけた僕の父親がNHKに直接電話をし「ゴリの父親ですけどぉ、私の店でもゴーヤーマンを売りたいんですが」と商売に入り込もうとした。すぐNHKから吉本に電話が入り、僕に伝えられ、しっかりとオトウを注意した。

02年は「美ちゅら海うみ水族館」が開園。03年は「ゆいレール」開通。高速道路もすでに通っている。09年は宮里藍がアメリカ女子ゴルフツアー初制覇。21年は東京オリンピックで空手の喜友名諒選手が県民初の金メダル。

もう沖縄に遅れはない。「ナイチャー(内地の者)には負けん!」と口グセのように言っていた県民の言葉も、もう聞かなくなった。みんなが自分の県に誇りを持ち、歴史、文化に胸を張れるようになった。

2022年今年、いよいよ復帰50周年を迎える。僕の人生も50周年。僕も沖縄もいろいろあった。その全てが栄養になった。これからの沖縄には期待しかない。また新たな人材が県民を驚かせ、勇気づけるであろう。アイデンティティーである首里城の再建ももうすぐだ。

可能性あふれる島「沖縄」と共に、残りの人生を伴走していきたいと思う。

ガレッジセール・ゴリ

1972年5月22日、那覇市生まれ。日大芸術学部映画科中退後、中学時代の同級生・川田広樹さんとお笑いコンビ「ガレッジセール」を結成、舞台やテレビで芸人として活動。2006年から映画製作を手掛け、本名の照屋年之名義で監督した長編作『洗骨』(20年)は第60回日本映画監督協会新人賞を受賞。22年4月28日には自身初の小説「海ヤカラ」を発表。

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